自己紹介

<政策・マニフェスト>

1)循環型社会の形成のために芦田川河口堰の開放をライフワークとし、将来の子供達に豊かな自然環境を残し、瀬戸内海の豊かな漁業資源の再生を目指している。

2)鞆や福山城に代表される福山市の歴史・文化と経済活動が共存するまちづくりを目指している。「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」がその活動拠点となっている。

3)作業療法士としての知識と経験を活かし、市民が安心して医療や介護が受けられるよう、医療・福祉を取り巻く環境整備に取り組んでいる。

4)風化しつつある戦争体験の継承が次の戦争の抑止策であると捉え、歩兵第41連隊の足跡「永遠の四一」や「奇跡の将軍・樋口季一郎」等による継承活動に取り組んでいる。

5)福山市の特産品である「ぶどう」を活用した新たな特産品「福山ワイン」により、ワインのまち福山を目指している。提唱するだけでなく、自らも「山野峡ワイン」の醸造に取り組んでいる。

6)スポーツによるまちづくりを進めるため、鞆の浦駅伝や鞆の浦トライアスロン等の運営にかかわっている。その他、福山市スポーツ協会理事、水泳連盟顧問、備後地区柔道連盟顧問に就任している。

7)子供の自然体験学習の機会を増やすため、山野町の「ゆうすけ山荘」を拠点とし、深い淵に飛び込ませたり、滝壷で泳いだり、魚を捕らせたりという経験を積ましている。冬になれば雪山登山をさせる等、大自然の中に身を置き自然に対する「畏れ」を学ばせている。

年表

昭和43年3月23日 大田浩右・大田祥子の次男として岡山市で生まれ、昭和47年に家族で福山市に転居

昭和48年 川口幼稚園入園

昭和49年 川口小学校入学

昭和50年 多治米小学校へ転校 学校から帰ると、毎日のように網とバケツを手にして芦田川へ遊びに行く。

昭和52年 芦田川河口堰運用開始、私は芦田川で遊んだ経験のある最後の子供であり、わずか3年間とはいえ、この思い出は何物にも換えがたく、自分の子供や孫の世代が体験できないことは残念至極に思う。

昭和55年 広大付属福山中・高等学校入学(34回生)
水泳部に入り、福山地区では常勝、県下でも有数の強い水泳部に成長する。高1の時、自転車による四国88ヶ所巡りの旅に出てオートバイに目覚め、寝ても覚めてもオートバイの事を考えるようになった。新聞配達により買ったホンダCB50JXが当時の愛車

昭和61年 大阪産業大学短期大学部・自動車工業科入学
2級自動車整備士免許を取得し、モトチャンプ杯耐久レースにも出場、19歳の時の北海道ツーリングは特に思い出深い。

昭和63年 愛媛十全医療学院・作業療法科入学
やはり病院に帰ろうと、リハビリテーション専門職を目指した。作業療法士は当時貴重な職種で別名「金の卵」、学院祭実行委員長を経験した。

平成3年 広島会計学院入学・大田記念病院就職
当初、作業療法士として老人デイケアを担当した。その後、広島会計学院で学んだ簿記の知識を活かして経理担当者となる。大田記念病院在籍中は「社会性のある病院」を目指し、ローズパレード、二上り踊り、芦田川一斉清掃、福山マラソンなど社外イベントに積極的に参加した。

平成7年 シーカヤックで瀬戸内海を横断(往復)した。

平成8年 異業種交流会「SAY YOU」を立ち上げ、幅広い人脈作りに取り組む。新谷暁生氏主宰のノーザンアドベンチャーカヤックスによる知床エクスペディションに参加し、シーカヤックで知床半島を回航した。

平成9年 初めて「トライアスロンさぎしま」を完走、11月に結婚する。

平成11年 第1回ケアマネージャー試験に合格し、福山市要介護認定審査員を務めた。

平成13年
冒険スキーヤーの和田義正氏とボリビアのチャカルタヤ山(標高5400m)をスキー滑降、芦田川の浄化を訴えて「芦田川手作りいかだレース」を主催した。

平成15年
市長選投票率33%にショックを受け、「わしがやらねば誰がやる」の精神で自ら政治活動に取り組むことを決意した。その第一弾としてカヌーイスト野田知佑氏を招き、芦田川に関する講演会を開催した。

平成16年
4月:福山市議選史上最高の得票(7,805票)でトップ当選、順風満帆のスタート、5月:母・大田祥子がチョモランマに登頂後、8,500m地点で遭難死、8月:父・大田浩右が福山市長選に立候補するも落選、議会内において一転して逆風にさらされる。

平成17年 初の代表質問、自治労のヤミ専従問題を追及した。

平成18年
わずか3人の最少会派「誠友会」を結成し、是々非々を貫く会派として頑張る。毎議会質問・討論を行い、議員としての力量を高めることができた。

平成19年
高金利の市債の繰り上げ償還に積極的に取り組むよう求めていたところ、タイミング良く国の繰り上げ償還の規制緩和が実施され、将来的に約50億円の利子節減が実現した。

平成20年
2期目の選挙において第2位当選(6,818票)、広島大学大学院・社会科学研究科マネジメント専攻に入学し、地域政策ゼミナールにて地方自治について学ぶ。昼は議会、夜は大学院という2足のわらじを履き、大変貴重な2年間を過ごす。

平成22年
広島大学大学院を修了、修士論文「芦田川河口堰に関する政策研究」により水道局から一目置かれる存在となる。「タクロバン福山交流支援センター」により姉妹都市タクロバン市からの訪問団を受け入れ、大きなニュースとなった。

平成23年
「寄らば大樹の影」では駄目と考え無所属1人会派となった。15ヶ月間の1人会派は大変良い経験となった。また、23年度は政務調査費を全額返上し、税金156万円を節減し、鞆の旧遊郭街「有磯」の古民家を「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」としてリニューアルした。
東日本大震災の発災後ただちに復興支援に取り組み、陸前高田市に中学生の学用品を届ける。南海支隊戦友遺族会主催の「ニューギニア慰霊の旅」に参加し、福山41連隊の慰霊を行った。

平成24年
「最低でもメダル」という目標を掲げ、3期目は3位当選(6,042票)、1人会派から最大会派「水曜会」に入会、民生福祉委員会・委員長に就任し、福祉年金の廃止に伴う成年後見人育成等に取り組んだ。この年より本会議に一問一答方式が取り入れられ、以後毎議会一般質問を行うようになった。

平成25年
富士山頂上よりスキー滑降、東日本大震災が風化しないよう陸前高田市の市長を招いて講演会を開催、第1回鞆の浦駅伝開催を実現、超大型台風に襲われた姉妹都市・タクロバン市の支援活動を行った。

平成26年
株式会社「福山健康舎」の代表取締役に就任、歩兵第41連隊の足跡を訪ねて「永遠の四一」を上梓、備後護国神社護持会を立ち上げ、福山市遺族会と共催で「みたま祭」を開催した。

平成27年
広島県市町議会議員政策研究会「広島クラブ」の会長に就任、ふくやまワイン特区により山野町の「やまの宿・西元」にて小規模醸造をスタート、広島の金本ファミリーとレイテ島慰霊の旅を催行、福山リトルシニア大田祥子旗野球大会が10回目を迎えた。

平成28年
ふくやまマラソンの「鞆の浦コース」実現、「歩兵第四十一連隊跡」記念碑をJA福山から緑町公園へ移設、4期目の選挙は投票率の低下にもかかわらず前回を上回る6,256票を獲得して第2位当選、都市整備特別委員会・委員長に就任した。

平成29年
備後ワイン・リキュール特区を活用して「山野峡大田ワイナリー」を設立、山野峡ワインの醸造により6次産業に取り組み、地方創生の政策実験をスタート。

平成30年
最大会派・水曜会の副会長に就任、建設水道委員会・委員長に就任、議会内の要職を経験、メキシコ・オリンピックチームの事前合宿受け入れに尽力、商工会議所青年部(YEG)研修委員会・委員長に就任、グリーンラインの自動二輪交通規制解除に貢献した。

平成31年/令和元年
漫画版・奇跡の将軍「樋口季一郎」を作成し、樋口将軍の孫・樋口隆一氏の講演会を開催、福山山岳会の会長として創立100周年記念行事を開催、新総合体育館「エフピコアリーナふくやま」のスポーツクライミング壁建設や、かわまち広場(特にスケボーパーク)整備に尽力した。

令和2年
経済リポートコラム「祐介の目」が連載100回目を迎え、100回記念集を作成した。

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